昨日は、県南監査員研修会へ広域の監査として参加。
県南各地区持ち回りの研修として、それぞれの持つ観光資源や歴史、行政の取り組みなどをお互いに理解する貴重な機会となっております。
今回は広域市町村圏組合の担当で、湯沢ジオパークのひとつの院内銀山を訪ね、当時東洋一だった銀山の栄枯盛衰を辿ってきました。
ジオパークのガイドの方の案内で、院内駅舎にもなっている異人館からスタートです。
院内地区は火山活動による直径6㎞ほどの「カルデラ」で、「院内銀山」や「院内石」は火山の産物として利用してきたとのことです。
(明治中期の院内銀山町)
1606年に発見された院内銀山は、久保田藩の財政を支えた。
最盛期には人口一万人を超え「出羽の都」と呼ばれ繁栄し、浮き沈みを繰り返し350年続き昭和29年に完全に閉山。
その経済圏は、湯沢市の形成のみならず仙北方面まで及んでいたようですし、当時久保田(秋田市)を凌駕するまちは、大消費地として周辺の様々な産業発展の礎となったとのことです。
山林原野となった一帯に残る当時の痕跡、また写真や現存している神社、坑道入口を目の前に地元ガイドの方の丁寧な説明を聞き、現在でもまさに鉱山の持つ力を体感できるものでした。
(当時の異人館跡地)
鉱山近代化の指導をしたドイツ人技師5人の当時の住居として使用したもので、石垣は近くの石切り場から採掘した院内石によるもの。
今回院内銀山を訪ね、以前種苗交換会の場で紹介していた、石川理紀之助が師と慕った高橋正作のことが思い出された。
高橋正作は現在の湯沢市小野の肝煎を務め、天保の大飢饉の時に私財をなげうって村人を救い、なお炭焼きを推奨し院内銀山に収めることで、長引く飢饉にあう村人が生き延びることができたそうです。
石川理紀之助にまつわる話として、そのような紹介がされていました。
銀山の精錬に欠かせなかった炭が、地域を守ったという事です。
銀山は閉山したとしても、当時は佐竹藩を支え、またその後の秋田県、国に至るまでのその影響は、改めて驚くばかりです。
このブログを書いていて、九州に進出した某半導体メーカーの工場が頭に浮かび、半導体とは、ある意味では現代の鉱山のような側面もあるのかもしれません。
(金山神社)
(御幸抗、みゆきこう)
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